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いじめというものは、いじめる側が絶対的に悪い。
それはつまり加害者と被害者の関係が圧倒的に固定したものであるから。
だから、いじめられるものは心すべきことがある。
言葉のいじめには耳をふさげ。
力や立場を利用したいじめをするやつの言葉など聞く必要がない。
だが、のぞむらくは強くなることだ。
言葉には耐性ができる。
腕力と決定的に違うのは、肉体的な傷害がないこと。
言葉ならば、強くなれば克服できる。努力もいらない。
暴力でのいじめには逃げて逃げて逃げまくれ。
そんなことが許される場所にいる必要はない。
そこがいじめられる場所、殴られる場所なら、逃げて構わない。
腕力をつけて仕返しをしろという人もいるが、
腕力をつけてかなうという保証もない。
しかも、勝てるまで殴られていろというのか。
ならば逃げるのがいちばん。
人は自分を守るためには逃げて構わない。
死ぬというのは最後の手段。
自殺は人間が自分を維持する最後の砦(とりで)。
完全には否定できないけれど、
簡単お手軽に「死ぬ」のはおすすめできない。
なにしろ、一度きりの最終兵器である。
生きていれば反撃の機会が幾度もあるかもしれない。
「死ぬ」くらいならば、まず「逃げる」ことをやってみるべき。
場所はある。
居場所はひとつではない。
「死ぬ」といじめた加害者の思うつぼである。
善悪とは何か?
それは我一身(われいっしん)の内にある、是非にほかならない。
善も悪も、どんな倫理を担ぎだそうとも、自らの観念意識を飛び出すことはない。
どんな宗教の普遍的な価値観も、共感を使用してもなお、
一人の頭のなかを超えることはない。
すなわち、善悪とは我みずからに問われる倫理と言えよう。
だとすれば、善を為し得るものは、どこまで行っても我ひとりということである。
そして、善を為し得たという思いも、どこまでも我ひとりのひとりよがりである。
他人が感じる善は、我為し得るところの善とは別物である。
他者をして善悪を感じさせ得るものは、また他者の内の我にほかならない。
どんなに、我の内に善を抱き「善」を為そうとも、
他者に善を感じさせるものは、他者の内の善悪の考えにほかならない。
他者の内の「善」が我一身のうちの善と重なるところがなければ、
我の善など、他者にとっては何ほどのことはない。むしろ悪である。
自我という意識が永遠の孤独のうちにあり、
五感もそしてそれを感得する存在もただ独りにすぎないなかで、
我を超越する善悪などというものは、到底手にすることなどできない。
それをあきらめることからしか、善悪の問いは始まらない。
改心はさせられるものではない。
それは自発的な契機を待つほかないのである。
刑務所における教務作業、改心あるいは回心の強要について、私は無意味を断じる。
刑によって、他者の内の善悪を「一般倫理」に沿わしむることなどできない。
すなわち、罪に応じた刑を定めたならば、それを理由如何で減免する必要はないということだ。
他者の善悪に対して、刑罰が示しうるのは「一般倫理」にすぎない。
また、法律という規則の違反にすぎない。
ゆえに、刑務所が刑罰で犯罪者を「善」に回心することなどできないのだ。
もちろん回心するものがいることも認める。
しかしそれは他者による契機というよりも、自発的な回心によるものである。
懺悔の一片もない犯罪者に「悔悟」を説いて、はたして何になるだろう。
「善」は普遍であるという信仰は構わないが、実体はそうではない。
どこまでいっても善悪は我ひとりの持ち物にすぎない。

景気対策で打ち出され地方高速道路通行料の1000円統一。および都心部高速道路の割引料金。
なんて大盤振舞の景気対策?!
しかし、これはNEXCO(日本高速道路株式会社)の割引ではない。
要は差額を誰かが持ち出しているのだ。(まあ補填というやつだ)
はっきりいって、NEXCOはびたイチモン値下げしてない。
では、誰が持ち出しているのか?
それは日本国政府、つまり税金、つまり国民である。
その証拠となる情報をいくつか掲載しておこう。
http://www.mag2qa.com/qa4793846.html
↑このQ&Aのページがいちばんわかりやすい。
補正予算のなかに高速道路値下げに関する予算措置が組まれている。
http://www.asahi.com/politics/update/0304/TKY200903040167.html
↑
朝日新聞の記事にもあるとおり、
予算措置だけでほとんど説明なしに実行されている。
少し考えればわかるのだが、
通常料金と値下げ後の差額は誰かが埋めないと赤字になる。
(通常営業で赤字の会社が何もなしに値下げをする体力はない)
ということで、この1000円には国からの税金投入が前提で実施されている。
通行車が増えて利用者が増えるほど、得するのは利用者ではなく、NEXCOである。
そしてNEXCOが肥え太って喜ぶのは、寄生している天下り官僚である。
なにしろ、この赤字会社は赤字会社のくせに、
高給取りのロートル役人の保養地になっているからだ。
この単純で詐欺のような問題がマスコミには出ていない。
1000円に値下げというは大嘘である。
高速道路の通行量を増やすために、税金で通行量を補填する、
これが正しい認識である。
だから、利用者が1000円で遠方に出かければ出かけるだけ、
NEXCOは自動的に儲かる。
本四架橋にしても、東京湾横断道路にしても、
通行量が増えたら、「ほら、この道路も捨てたもんじゃないだろ」と開き直る。
そんな高速道路の寄生虫たちの顔が浮かぶ。
さらに、高速道路の値下げ補填をETC搭載車に限定したから、
そのETCに寄生する天下り団体もウハウハである。
http://gendai.net/?m=view&g=syakai&c=020&no=39069
1000円で喜ぶのは糠喜びだ!!
差額は税金から払っているんだから、
結局は正規料金で利用しているのと変わらない。
「ボーナス多くしたから」と言いながら、増えた分を、
いつもの給料から天引きされているようなもんだ。
高速道路料金の<値引き>とはどこにも書いていない。
実際には<1000円化>であって、
さらに正確に記せば<税金補填による1000円化>である。
ETCを付けて、高速道路を車が走れば走るほど、
国交省とそのOBたちがウハウハ笑う。
できれば遠くまで走って、どんどん税金を突っ込んでくれ!
とね。
ぼったくりバー同然の日本の景気対策。
いつも財布からたかられる学習力がない国民。
勘弁して欲しいな。
13時過ぎには武道館付近にいた。すると、すでに機材チェック、楽器の音出しがはじまる。まず、ドラム、つづいて鍵盤、ベース、ギター。宮本浩次御大が登場したのが、14時。「ええっ、早いな」というのが印象。ここから延々2時間近い歌唱をふくめたリハーサルが続いた。しかも、いつもながらリハーサルから全力である。そんなに歌ったら本番で声が嗄れるぞという心配は、半ば的中(高音が出なくなった)、半ば杞憂(高音部以外は問題なく歌いきった)に終わった。
18時10分入場のためのSEがかかり、エレカシ登場。1曲目「新しい季節へキミと」。出し惜しみするかと予測していたストリングス隊を冒頭から惜しげもなく披露したことにびっくりした。CDではストリングスが入るとバンドの音が引っ込んでしまったが、今回の武道館ではよいアンサンブルになっていて、ストリングスがあることによる相乗効果が発揮された。会場が一気に盛り上がる。
と、2曲目で「この世は最高!」。いつもは成ちゃんのコーラスが印象的な楽曲だが、今回は石君と昼海幹音だけだった。2曲目でエピック時代の曲を挟んだことで、セットに深みが出た。「手当たり次第に夢をつないでやってりゃいいんだ」というのは、エッジの利いた尖(とが)った曲である。3曲目でふたたび universalに戻って「今はここが真ん中さ!」。この曲はオープニングにふさわしい華やかさのある曲。「今は武道館がど真ん中!」といつもどおりのアドリブを交えつつ、「はじまるよぉ」と盛り上げる。
ここから定番曲がつづいた。「デーデ」は「貧乏に捧(ささ)げるバラードだ」との定番的な紹介をやめて「ブルースだ。ど・ブルースだ」との口上。ここから宮本御大が右へ左へと駆け回る。つづいて「未来の生命体」。この曲は近年セットによく登場する良作。昨年のアルバムツアーでも披露されていたが、今回も安定したよい演奏だった。つづいて「風に吹かれて」オリジナル・バージョン。リハーサルでは蔦谷好位置を押し出したピアノ・アレンジを練習していたので、本編になってからバージョン・チェンジした1曲だろう。「さらば青春」も最近演奏回数があがってる曲だが、文句なくよい。高音パートがないことも手伝って、かすれ声なしに聞くことができた。筆者の涙腺に響いた。「甘き絶望」はMCにもあったとおり、ミヤジが個人的に大好きな曲である。以前、Shibuya-AXの2 daysのMCだったと思うが、シングルで出したいといって周囲に反対されたと残念がったエピソードを紹介していた。これもとてもよい完成度だった。「悲しみの果て」は言うまでもなく完璧(かんぺき)。エレカシのアンセムである。
何か、すごく真っ当なライブで、ガサガサ、ザワザワした緊張感がないなあと思っていたら、「男は行く」である。ぶっ飛んだ。石君を久しぶりにイジメたおしてた。セットされた七三分けの髪の毛をむんずとつかむは、「もっとこっちへこい」「もっとだ」と、恐るべき指令を発して、荒くれ者の片鱗(へんりん)を見せていた。その意味で、まだ老成しきっていない、燃え上がる気持ち、荒ぶるココロを忘れていないんだな、そう感じた。演奏が終わってから、「緊張しているけど、今日も最高のギターです。中学時代に秩父(ちちぶ)にいっしょに行った仲です」とフォローを入れてたので、観客も一安心。しかし、新参のファン以外は、むしろああいうビリビリした感じのアピアランスが久しぶりだったので、狂喜したのではないか。
「リッスントゥザミュージック」はヴァイオリン&チェロとの共演。アルバムと同じ編成でのライブ・パフォーマンス。美しい前半の恋模様と後半のバンド・サウンドの盛り上がりを完璧(かんぺき)に再現。金原(きんばら)千恵子さんの熱演に拍手。「昔の侍」はストリングスとの相性がとてもよい曲。MCでも言っていたように、『葉隠(はがくれ)』など武士道に着想をえてできた一曲であるが、死と再生、死ぬことによって生きる道を得るという、文学的なテーマを持った一曲である。この曲は太陽の描写が新作アルバム『昇れる太陽』に重なるので取り上げられたのだろう。
今回一番のサプライズかつ完成度を誇ったのが、「シャララ」である。それを演奏することはリハーサルでわかっていたが、まさかストリングスを含めたアレンジで披露されるとは想像だにしなかった。正直、楽曲の持っていた潜在的な力に度肝を抜かれた。錬度があがっている、今現在のエレファントカシマシで再演される、エピック時代の楽曲のクオリティの高さ。「恋をせにゃならぬ 飯くわにゃならぬ」。発表当時の老成に年齢が追いついて来たことがよくわかる。
休む間もなく「珍奇男」。立て続けに大作である。しかも、前半からトミが煽られていた。「珍奇男」は石君とミヤジのギターのかけあいが注目されがちだが、ドラムのトミの見せ場度合いが高い曲である。だから、ミヤジに煽られるわけだが、今回の武道館の立て続けの演奏を見ていると、ややトミに残酷なセットのような気がした。しかし、「珍奇男」ではトミと成ちゃんのリズム隊がすばらしかった。
さて、エピックとキャニオン時代のパートを終えて、再びuniversal時代の楽曲群。「It’s my life」は、ひとつ前の「珍奇男」の息切れを抱えていて、不出来な内容だった。昨年JCBホールで見たときはもっとガツっと骨太の演奏だったけれど、今回はちょっとよれていた。ボーカルのミヤジも少なからず息切れしていて、もったいない感じだった。フロアの反応もやや薄かった。その反動もあってか、次の「ハナウタ」がとても盛り上がった。CMタイアップで制作すると駄作に落ちる作品になるケースが多々あるなかで、これほどの名曲をつくる今のエレカシはすごい。とても丁寧に歌っており、春の華やかさもあり、シングルにリカットされてもおかしくない名曲である。「to you」では、またしてもやや不出来。高音がうまく出ないことが足を引っぱった曲が今回は散見された。無理をして高音を使わないで、うまく歌いきれるようにしたほうが、もっと力強くなると個人的には思うのだが、高音で歌う部分をつくるのが好きなミヤジのこと、やるなというほうが無理なのかもしれない。
「絆」で再び金原千恵子ストリングス。これもタイアップありきで作られた楽曲。しかし、この「絆」や「ハナウタ」のような、華やかではあるけれど決して媚びていない新曲の力強さに、胸を打たれる。ストリングス隊を全面的にしたがえた、一夜かぎりのすばらしいショーだった。もしかすると、前回の武道館やライフツアーのときよりも、アンサンブルとして完成していたのではないかと思った。つづけて「笑顔の未来へ」。これもまたストリングスがイメージを広げる曲である。しかも蔦谷好位置のアレンジのなかでも屈指の作品であり、ミヤジも不思議なくらいリラックスして歌える曲である。すでにライブ定番の感も強い、しかも不思議と聞き飽きない。
ストリングス隊のハイライト、武道館公演のタイトルの由来でもある、「桜の花、舞い上がる道を」。今回の武道館公演がこの曲ありきだったことは間違いない。そして、「絆」。「ハナウタ」や「to you」なども含めて、春めく風や春の光をテーマにして彩った素晴らしいステージ。ピンク色のライトアップのなかで歌われる「桜の花、舞い上がる道を」は、本編の〆である「俺たちの明日」よりも、よほどハイライトだった。しかし、あまり桜に思い入れがないのだろう、多くを語らないミヤジが頬笑ましかった。宮本にとって桜は「One Of Them」といおうか、春という大きな出来事のなかでは、ひとつピースにしかすぎない。しかも、他の花より特別ということはない、その思いを強くした。それでも、ハイライト足りうる力強いメッセージがあって、不思議と違和感を覚えなかった。
近年における鉄板の名曲「FLYER」と「俺たちの明日」で本編をしめくくりをかざる。「FLYER」は演奏の熱さと「もう一度会おう」というメッセージの力強さに胸打たれる。「俺たちの明日」は、メジャーシーンへの高らかに宣言した、近年の代表作。ただ、「俺たちの明日」はストレートすぎるきらいがつよく、私自身はあまり思い入れを持てない。同じテーマであるなら「FLYER」に肩入れしてしまう。
メンバーが舞台袖(そで)に下がって、本編が終了。22曲立て続け、ギターチェンジ以外に休息なしに走り続けた、メンバーの体力に感服した。どれだけのスタミナを養ったのだろう。リハーサルを3時間やって、そのあとの本編2時間超。
黒シャツに着替えたミヤジが一番のりして、アンコール・パートのスタート。「今宵の月のように」。これも鉄板かつ安定度の高い名曲、名演。次に「風」。これは急遽ミヤジの機転で挿入された1曲のような気がした。というのも、次のためのギターチェンジをスタッフが行おうとしたのを断って、おもむろに弾きはじめた曲だからである。今まで何度か聞いた「風」のなかでピカイチの演奏と歌唱。しかし高音が出ない。ただ、それゆえの切実さも伝わる。上手く歌うことだけが名演ではないことの証明。つづいて「流れ星のやうな人生」。これは沈み昇る太陽の下りを強調すべく組まれた、アンコールセット用の曲だろう。演奏としてはあまり上手くなかったが、客席へのアピールは最高潮だっただろう。
そして、ラスト「ファイティングマン」。バンドの代表曲にして、ファーストアルバム劈頭(へきとう)のキラーチューン。予想通り、最後をかざる曲に採用。客席とステージの一体感も最高潮。にんまりと笑顔が浮かぶなか、あまり尾を引くことなく、ミヤジが深々と一礼して舞台袖に去っていく。
暗転して、しばらくアンコール登場用の照明に切り替えたので、アンコール2があるかと思いきや、客電がいっせいに点り客出しの場内放送。おそらく、アンコールセットはもう少し用意されていたのだと思うが、メンバーがやりきって体力が続かなかったような気がする。あれ以上求めるのは酷である。果たして演奏されなかったアンコールセットは「ガストロンジャー」だったのか、「so many people」だったのか、はたまた「武蔵野」だったのか。
武道館公演の印象。
新しめの曲で勝負をかけたセットであった。蔦谷好位置と昼海幹音を加えた6人編成のエレファントカシマシを十二分に意識して、これまで6人でやってきたレパートリーのなかから、自信作をピックアップしていた。新しいファンを意識したとても間口の広いセットリストだったけれど、長年のファンを退屈させない、華やかなショーアップと少ないながら力強い初期の楽曲をちりばめた。晴れ舞台で大見得を切っている、数年、数十年に一度の姿を見せたような気がした。しかし、ライブハウスでエッジの立った演奏をするエレカシもそろそろ見てみたい。アンサンブルをぶち壊すような攻撃性、野生がどうやら戻りつつあるようだし。
世界中で「放火」犯罪が起きている。
放火という犯罪に現れているのは、破壊のカタルシスである。
そして、他人を傷つけることのなかに、
社会あるいは世界のリセットを願うような心性である。
金持ちは「放火」犯罪を起こさない。
という単純な統計からみてもわかるように、
「放火」が貧しいもの持たざるものの犯罪であることはあきらかだ。
そこには強い破壊衝動をもった悪意が存在している。
ただし、「放火」は基本的には個人犯罪であることが多い。
軍隊が戦争時に組織的に村落を焼き討ちするような現象は、
ふつう日常一般の「放火」では起こりえない。
というのも、「放火」の快楽性は個人のルサンチマンだからである。
組織だった力を持つものは、「放火」という手段を用いないのである。
「放火」が殺人と同等の犯罪であるという刑法上の考察は、
「放火」を根絶するためには何の役にも立たない。
また、厳罰化についても、
いたずら目当ての子どもならば歯止めにもなるが、
社会への強い怨念を持つものや個人的な私怨で火を点けるものには、
それでは何の抑止力にならない。
「放火」が貧者の、とくに個人の犯罪であることに着目し、
これを社会の規範のなかにすくい取ってゆくような努力がなければ、決して根絶できない。
マッチ一箱、ライター1個さえあれば、手近な焚きつけで誰でも「放火」犯に早変わりするのだ。
