HPを開設するにあたり、付属のブログを開こうと設置しました。
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
2009年5月9日(土)
早稲田大学 大隈小講堂
公開フォーラム「あらたな「人権への視座」を求めて」岡部伊都子没後1年
第一部 「暴力の時代-言葉に見放される時-」 講演者 辺見庸
14:00~15:00 約60分
公演内容を控えたメモを整えたものを公開しておく。
当日は、このあと青山葬儀場に忌野清志郎の送別に行った。
辺見庸は足を引きながらも自身で歩いていた。
しかし、休日にもかかわらずスーツ姿でいかめしい、
知識人然とした編集者の進行に苛立ちも見せていた。
「賢しら」が嫌だったのかもしれない。
あるいは、時代状況が悪化するなかで、
馴合う「進歩人サークル」みたいなものが嫌だったのかもしれない。
印象的だったのは後半に「9・11事件」について触れた話である。
知人の女性からかかってきた電話で、
飛行機にテロリスト自身が乗っていたことが悲しい、
と泣かれたということを話した。
(自爆テロという「絶望の表明」であることへの悲しみだろう)
辺見はそれを「絶対少数者の立場」として「あり」だと感じたと言った。
WTCビルへのテロ事件はアメリカ側からすれば、
とても重大事件だが、
日常茶飯に人が飢えや疫病や戦争で死んでいる人々からすれば、
まだ足りないと思えるくらいに少ない打撃なのかもしれない。
実際、テロ事件の被害者とその後の戦争における一般市民の犠牲者を比べると、
あきらかに後者のほうが段違いに多い。
では、テロ事件の前はどうったのだろうか?
アメリカやアメリカの金融センターが、
軍事力と覇権的な搾取からなりたっているのだという認識は、
テロリストたちの冷徹な実情分析である。
その意味で、彼らが象徴的にNYの金融センターとペンタゴン、
ホワイトハウスを狙ったことには、テロリスト側の正論がある。
ただ、「自爆」特攻であったことの闇は深い。
人びとの貧窮を憂うものが、人間を武器に貶めたりするものだろうか?
また、WTCのなかに同じイスラム教徒がいるかもしれないという想像力が働かない、
その程度のテロリストに先導されてしまう人たちの悲しみ。
アルカイーダは結局、貧民を武器にして搾取しているのである。
日本にはテロも戦争もありはしないが、
3万人以上の人が自裁によって死んでゆく。
それはWTCのテロ事件の被害者よりもなお多い。
そして、その3万人を殺しているものの正体を誰も探ろうとしていない。
誰も3万人を弔おうとしていない。この二つの事実の隔絶。
詫間守や秋葉原事件の加藤某が、
自殺の以前にテロ事件を試みたのだとしたら、
日本にも「格差」ないし「絶望」の戦場があるのだと感じるのは行き過ぎではない。
それらの事件を「異常」として批難するニュースの言葉、
訳知り顔の評論家の言葉に、3万人の自裁の人々や無差別殺人の被告を止める、
その覚悟や意気地があるとはとうてい信じられない。
それはきれいに整えられた言葉だからである。
辺見庸がいうところの「発泡スチロール」のような言葉である。
辺見庸の言葉に頼りすぎてはいけないが、
少なくともTVニュースのコメンテーターや、
月曜の朝礼で訓示を垂れる学校の校長のような、
空疎な血の気のない言葉ではない、臭いのある言葉に出会える。
辺見庸は自身の血生臭さから逃げたりはしない。
人をぶっ殺したくなること、それくらい誰にでもあるのだ。
あるにもかかわらず、「ない」と嘘を言うよりも、
だけど別のことでそれを思いとどまった事実を話してくれる方がよいだろう。
初の詩集を発刊してより、音信のない辺見庸。
闘病の中で何を考え、何を書いているのか、
少なからぬ辺見惚れの私は、時折彼の筆致で社会を見ることを試みる。
早稲田大学 大隈小講堂
公開フォーラム「あらたな「人権への視座」を求めて」岡部伊都子没後1年
第一部 「暴力の時代-言葉に見放される時-」 講演者 辺見庸
14:00~15:00 約60分
公演内容を控えたメモを整えたものを公開しておく。
当日は、このあと青山葬儀場に忌野清志郎の送別に行った。
辺見庸は足を引きながらも自身で歩いていた。
しかし、休日にもかかわらずスーツ姿でいかめしい、
知識人然とした編集者の進行に苛立ちも見せていた。
「賢しら」が嫌だったのかもしれない。
あるいは、時代状況が悪化するなかで、
馴合う「進歩人サークル」みたいなものが嫌だったのかもしれない。
印象的だったのは後半に「9・11事件」について触れた話である。
知人の女性からかかってきた電話で、
飛行機にテロリスト自身が乗っていたことが悲しい、
と泣かれたということを話した。
(自爆テロという「絶望の表明」であることへの悲しみだろう)
辺見はそれを「絶対少数者の立場」として「あり」だと感じたと言った。
WTCビルへのテロ事件はアメリカ側からすれば、
とても重大事件だが、
日常茶飯に人が飢えや疫病や戦争で死んでいる人々からすれば、
まだ足りないと思えるくらいに少ない打撃なのかもしれない。
実際、テロ事件の被害者とその後の戦争における一般市民の犠牲者を比べると、
あきらかに後者のほうが段違いに多い。
では、テロ事件の前はどうったのだろうか?
アメリカやアメリカの金融センターが、
軍事力と覇権的な搾取からなりたっているのだという認識は、
テロリストたちの冷徹な実情分析である。
その意味で、彼らが象徴的にNYの金融センターとペンタゴン、
ホワイトハウスを狙ったことには、テロリスト側の正論がある。
ただ、「自爆」特攻であったことの闇は深い。
人びとの貧窮を憂うものが、人間を武器に貶めたりするものだろうか?
また、WTCのなかに同じイスラム教徒がいるかもしれないという想像力が働かない、
その程度のテロリストに先導されてしまう人たちの悲しみ。
アルカイーダは結局、貧民を武器にして搾取しているのである。
日本にはテロも戦争もありはしないが、
3万人以上の人が自裁によって死んでゆく。
それはWTCのテロ事件の被害者よりもなお多い。
そして、その3万人を殺しているものの正体を誰も探ろうとしていない。
誰も3万人を弔おうとしていない。この二つの事実の隔絶。
詫間守や秋葉原事件の加藤某が、
自殺の以前にテロ事件を試みたのだとしたら、
日本にも「格差」ないし「絶望」の戦場があるのだと感じるのは行き過ぎではない。
それらの事件を「異常」として批難するニュースの言葉、
訳知り顔の評論家の言葉に、3万人の自裁の人々や無差別殺人の被告を止める、
その覚悟や意気地があるとはとうてい信じられない。
それはきれいに整えられた言葉だからである。
辺見庸がいうところの「発泡スチロール」のような言葉である。
辺見庸の言葉に頼りすぎてはいけないが、
少なくともTVニュースのコメンテーターや、
月曜の朝礼で訓示を垂れる学校の校長のような、
空疎な血の気のない言葉ではない、臭いのある言葉に出会える。
辺見庸は自身の血生臭さから逃げたりはしない。
人をぶっ殺したくなること、それくらい誰にでもあるのだ。
あるにもかかわらず、「ない」と嘘を言うよりも、
だけど別のことでそれを思いとどまった事実を話してくれる方がよいだろう。
初の詩集を発刊してより、音信のない辺見庸。
闘病の中で何を考え、何を書いているのか、
少なからぬ辺見惚れの私は、時折彼の筆致で社会を見ることを試みる。
PR

自民党、民主党の2大政党に代わって第3の勢力として「みんなの党」が勢力を伸ばしている。選挙民の支持を得ているその原動力は、「公務員改革」と「小さな政府」というどこかで聞いた主張である。「みんなの党」の「公務員改革」については魅力的な提案が多く、賛同することが多い。しかし、「みんなの党」の政策の主眼はそこにはない。「規制改革」を通じて大企業と富裕層に対して、さらなる利益を誘導することにあるのだ。そのことが顕著なのが、経済政策における小泉政権との共通性である。
世界には新興国があって、それらの国々が世界の消費経済を誘因して経済成長を促す。そんな近視眼のことをいう評論家が多い。だが、新興国の姿は、先進国のかつての姿なのであって、結局彼らも数年か数十年の単位で先進国と同じ隘路(あいろ)に嵌り込む。それも、加速度的な成長をする新興国ほど、加速度的に先進国の経済問題の隘路に突進することになる。
アメリカはそれでも消費が伸びたという。
それにはカラクリがある。
アメリカは中小所得者に減税やら補助金やらで金を撒いているのである。
しかもその原資は、大企業や金持ちからの徴税ではなく、国債発行である。
そして、その国債は国内消費されているのではなく、
海外の関係国に対して購入圧力をかけて引き受けさせているのである。
つまり、アメリカの消費は、
親分子分の関係にある関係国に対して、
借金を押しつけることで成り立っているのである。
これはひどく歪な話である。
考えてみて欲しい、
アメリカには全世界のなかでもトップクラスの大金持ちが山ほどいるのに、
その国家財政は赤字で、
なおかつその赤字の穴埋めはアメリカ以外の国が負担しているのである。
そして、赤字国債で手に入れた金は、
「バラマキ」的な政策で国民にまかれて、
またそれは大企業の商売によって大金持ちたちの手の中におさまっていく。
アメリカの金持ちは、
ひとつには国内の中小所得者から金をふんだくっているのだが、
さらに間接的には国外の米国債の購入国からも金をふんだくっているのである。
国家というのは国民全体で構成してはじめて存立するものだから、
国家の借金はよりよく大金持ちが払わなければならないのは当たり前である。
ふつう一般の家庭で、
親の借金が子供に引き継がれるのと同様である。
もしそれが嫌なら、家財一切を捨てて「破産」宣告を受け、
最貧境遇で出直すしかない。
アメリカはそれをまるでやっていない。
借金を返す気がまるでないのだ。
また、それを引き受けている子分の国家たちが、
アメリカの武力を恐れて言い出せないでいるから、
それもまたタチが悪い。
アメリカが一握りの大金持ちに資産を集めながら、
国民の消費意欲が盛んな理由は、
つまり他の国からの借金で大量消費をまかなっているからである。
アメリカの消費者の購入手段のなかで、
もっともポピュラーなのはリボルビング(複数回払い)である。
そして、それを支援しているのが信販会社とクレジットカードである。
リボルビング払いによって、実収入よりも高額な支出ができるために、
アメリカの国民はあてのない支払いを気にせず、どんどんと物を購入する。
しかし、そのリボ払いの根拠はかなり薄弱である。
信販会社は、全額返済よりも当面の手数料収入と、
貸出し実績による業績値の方を気にかけているからである。
サブ・プライム・ローンでも判明したように、
数値の上昇を求める金融業界では、
確実な貸出先に堅実に貸し出すよりも、
貸出しの額に基づく利益をアテにして、誰彼なく貸し出す。
「貸し倒れ」がないという無根拠な貸出しは、
消費行動をアクセレートして景気をよくするので、
一見、矛盾なく思えるが、景気はいつか収縮する。
景気が収縮すれば賃金は下降し、失業者が発生し、
リボ払いの出来ない自己破産者が増加する。
となれば、そのツケは間違いなく金融機関に跳ね返る。
金融機関に跳ね返ったツケは国家に跳ね返る。
国家に跳ね返ったツケは、国債購入者に跳ね返る。
国民は政府や銀行から融資を受け、
銀行は政府から融資を受け、
政府は国債で他国からの融資を受けている。
この融資のチェーン・リアクションは負の連鎖であるから、
国民が破綻するところから反転して、諸外国に波及する。
住宅対象のサブ・プライムローンなどはまだ序の口で、
アメリカ国民が平常に使っているカード・ローンが破綻するとき、
その時はアメリカの信販会社と金融機関がそろって潰れる時である。
その大きな破綻の地震が起こったならば、
いくら関係国に米国債を押しつけようと思っても、
押しつけきれないだろう。
ところで、
日常生活につかっている買い物用のローンが破綻する日、
それはそう遠くないことに思える。
なぜといえば、アメリカには激甚災害が多発し、
しかし労働者の賃金は相変わらず低迷し、
にもかかわらず、リボ払いのカード購入による消費活動は続いている。
これがそう長く続くはずがない。
破綻の足音は一歩一歩近づいている。
そして、それが来る日、アメリカの消費活動は壊滅する。
(つづく)
それにはカラクリがある。
アメリカは中小所得者に減税やら補助金やらで金を撒いているのである。
しかもその原資は、大企業や金持ちからの徴税ではなく、国債発行である。
そして、その国債は国内消費されているのではなく、
海外の関係国に対して購入圧力をかけて引き受けさせているのである。
つまり、アメリカの消費は、
親分子分の関係にある関係国に対して、
借金を押しつけることで成り立っているのである。
これはひどく歪な話である。
考えてみて欲しい、
アメリカには全世界のなかでもトップクラスの大金持ちが山ほどいるのに、
その国家財政は赤字で、
なおかつその赤字の穴埋めはアメリカ以外の国が負担しているのである。
そして、赤字国債で手に入れた金は、
「バラマキ」的な政策で国民にまかれて、
またそれは大企業の商売によって大金持ちたちの手の中におさまっていく。
アメリカの金持ちは、
ひとつには国内の中小所得者から金をふんだくっているのだが、
さらに間接的には国外の米国債の購入国からも金をふんだくっているのである。
国家というのは国民全体で構成してはじめて存立するものだから、
国家の借金はよりよく大金持ちが払わなければならないのは当たり前である。
ふつう一般の家庭で、
親の借金が子供に引き継がれるのと同様である。
もしそれが嫌なら、家財一切を捨てて「破産」宣告を受け、
最貧境遇で出直すしかない。
アメリカはそれをまるでやっていない。
借金を返す気がまるでないのだ。
また、それを引き受けている子分の国家たちが、
アメリカの武力を恐れて言い出せないでいるから、
それもまたタチが悪い。
アメリカが一握りの大金持ちに資産を集めながら、
国民の消費意欲が盛んな理由は、
つまり他の国からの借金で大量消費をまかなっているからである。
アメリカの消費者の購入手段のなかで、
もっともポピュラーなのはリボルビング(複数回払い)である。
そして、それを支援しているのが信販会社とクレジットカードである。
リボルビング払いによって、実収入よりも高額な支出ができるために、
アメリカの国民はあてのない支払いを気にせず、どんどんと物を購入する。
しかし、そのリボ払いの根拠はかなり薄弱である。
信販会社は、全額返済よりも当面の手数料収入と、
貸出し実績による業績値の方を気にかけているからである。
サブ・プライム・ローンでも判明したように、
数値の上昇を求める金融業界では、
確実な貸出先に堅実に貸し出すよりも、
貸出しの額に基づく利益をアテにして、誰彼なく貸し出す。
「貸し倒れ」がないという無根拠な貸出しは、
消費行動をアクセレートして景気をよくするので、
一見、矛盾なく思えるが、景気はいつか収縮する。
景気が収縮すれば賃金は下降し、失業者が発生し、
リボ払いの出来ない自己破産者が増加する。
となれば、そのツケは間違いなく金融機関に跳ね返る。
金融機関に跳ね返ったツケは国家に跳ね返る。
国家に跳ね返ったツケは、国債購入者に跳ね返る。
国民は政府や銀行から融資を受け、
銀行は政府から融資を受け、
政府は国債で他国からの融資を受けている。
この融資のチェーン・リアクションは負の連鎖であるから、
国民が破綻するところから反転して、諸外国に波及する。
住宅対象のサブ・プライムローンなどはまだ序の口で、
アメリカ国民が平常に使っているカード・ローンが破綻するとき、
その時はアメリカの信販会社と金融機関がそろって潰れる時である。
その大きな破綻の地震が起こったならば、
いくら関係国に米国債を押しつけようと思っても、
押しつけきれないだろう。
ところで、
日常生活につかっている買い物用のローンが破綻する日、
それはそう遠くないことに思える。
なぜといえば、アメリカには激甚災害が多発し、
しかし労働者の賃金は相変わらず低迷し、
にもかかわらず、リボ払いのカード購入による消費活動は続いている。
これがそう長く続くはずがない。
破綻の足音は一歩一歩近づいている。
そして、それが来る日、アメリカの消費活動は壊滅する。
(つづく)
結論からはじめる。
「物が売れない」のは消費者の数が少ないからである。
そのものに対する消費者が少ないのは、
物が欲しい欲しくないよりも、
それを買うことができる財力があるかないかが第一義に大切である。
世の中の商品が売れないのは、商品を買う余力が消費者にないことから、
いわゆる消費者である人々が消費から撤退していることに原因がある。
では、なぜ消費者であった人々が消費から撤退して、
アンチ消費者になったのか?
それは給与と所得の問題である。
消費が減退する何よりの原因は、
消費者となるべき人々にその経済的余裕を与えないことにある。
経済の当たり前のセオリーを突き詰めれば、
一握りの大金持ちをつくる社会よりも、
大多数の中間層をつくるほうが消費は増え、価値は循環する。
大金持ちが少数いて貧乏人が大半の社会には、
金持ちに対する「アメリカン・ドリーム」は生まれるが、
消費活動は圧倒的に低い。
逆に、
大金持ちは少ないが
「ほどほどの所得のある」中間層が多数と少数の貧困層で構成する社会には、
「アメリカン・ドリーム」は生まれないが、消費活動は盛んになる。
中間層が厚い社会では、
人々が必要とするものはいつも必要なだけ売れ、
価格は適性に作用し、買い控えや値下げ圧力はかからない。
しかし、大金持ちをつくるために、中間所得層や貧困層の所得を圧迫する社会では、
デフレ圧力がかかり商品の価格は制限される。
所得のあがらない社会で値上げなどできるはずがない。
これを解決しようとすれば、
貨幣価値をさげて見ため上の価格を上げるインフレーションしかないが、
これをやると結局は資産のない庶民たちの蓄財を圧迫する。
すると、
経済指標的には回復したように見える社会の景気によって、
人々は余計に苦しむことになる。
「物が売れない」のは、
大金持ちが企業の利得の大部分を持ち去り、
大部分の中小所得者に対してその分け前を分配しないからである。
そうして大金持ちに集中しがちな余剰を、国家が召し上げて配分するのが、
本来備わっていた国家の福祉機能である。
しかし、
アメリカが金融資本主義のなかでつくりあげた「金持ち優遇」政策は、
結局のところは所得を大金持ちによりいっそう集めるアクセルを踏むことにすぎなかった。
だから、「物は売れない」ままである。
(つづく)
「物が売れない」のは消費者の数が少ないからである。
そのものに対する消費者が少ないのは、
物が欲しい欲しくないよりも、
それを買うことができる財力があるかないかが第一義に大切である。
世の中の商品が売れないのは、商品を買う余力が消費者にないことから、
いわゆる消費者である人々が消費から撤退していることに原因がある。
では、なぜ消費者であった人々が消費から撤退して、
アンチ消費者になったのか?
それは給与と所得の問題である。
消費が減退する何よりの原因は、
消費者となるべき人々にその経済的余裕を与えないことにある。
経済の当たり前のセオリーを突き詰めれば、
一握りの大金持ちをつくる社会よりも、
大多数の中間層をつくるほうが消費は増え、価値は循環する。
大金持ちが少数いて貧乏人が大半の社会には、
金持ちに対する「アメリカン・ドリーム」は生まれるが、
消費活動は圧倒的に低い。
逆に、
大金持ちは少ないが
「ほどほどの所得のある」中間層が多数と少数の貧困層で構成する社会には、
「アメリカン・ドリーム」は生まれないが、消費活動は盛んになる。
中間層が厚い社会では、
人々が必要とするものはいつも必要なだけ売れ、
価格は適性に作用し、買い控えや値下げ圧力はかからない。
しかし、大金持ちをつくるために、中間所得層や貧困層の所得を圧迫する社会では、
デフレ圧力がかかり商品の価格は制限される。
所得のあがらない社会で値上げなどできるはずがない。
これを解決しようとすれば、
貨幣価値をさげて見ため上の価格を上げるインフレーションしかないが、
これをやると結局は資産のない庶民たちの蓄財を圧迫する。
すると、
経済指標的には回復したように見える社会の景気によって、
人々は余計に苦しむことになる。
「物が売れない」のは、
大金持ちが企業の利得の大部分を持ち去り、
大部分の中小所得者に対してその分け前を分配しないからである。
そうして大金持ちに集中しがちな余剰を、国家が召し上げて配分するのが、
本来備わっていた国家の福祉機能である。
しかし、
アメリカが金融資本主義のなかでつくりあげた「金持ち優遇」政策は、
結局のところは所得を大金持ちによりいっそう集めるアクセルを踏むことにすぎなかった。
だから、「物は売れない」ままである。
(つづく)
