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2011/05/22、NHKが捕鯨の町として世界中に有名になってしまった、和歌山県太地町の6カ月についてをドキュメントとして番組にしていた。その中で、捕鯨を職業とする人たちの苦悩と、そして誇りたかい職業意識、それに対して乗り込んでくる「環境保護」団体の人たちのあからさまな妨害工作とプロパガンダのやりかたが対置されていた。

南氷洋におけるシー・シェパードの捕鯨船への体当たり攻撃を見てもわかるように、彼ら「環境保護」団体のなかでも極端に先鋭化したグループというのは、突撃攻撃をパフォーマンスとして行い、それをビデオメッセージとすることで、活動資金を集めることがよく知られている。コメディアンが熱くもない料理を熱がって食べるように、また怪我をしないような事態で大げさに痛がって笑いを取るように、ビデオメッセージで食い扶持を得る「環境保護」団体は、反響の高い映像をつくる。彼らはセンセーションを演出するためには、事実にはなかったことを付け足したり、相手がより禍々しく見える編集を加える。善悪の対立がはっきりとしたハリウッド映画のように、物語の白黒をわかりやすく加工する。彼らはドキュメンタリーを作っているのではなく、ドキュメンタリー風のフィクションをフレームアップし、自分たちに都合のよいプロパガンダを行っているのである。そのことが今回よくわかった。というのは、南氷洋における活動同様に、まず彼らが太地町の漁民を威嚇し、挑発して怒らせて、それをカメラに納めようとするからである。あの歪な光景を見ていると、車に自ら突っ込んできて、補償金をせしめるために大げさに騒ぎ出す「当たり屋」と二重写しになってしまった。


彼らが主張する3つの論拠に対する反論

(1) 捕鯨・イルカ漁が残酷であること
食用肉の屠畜(とちく)はどれも残酷。
食用肉の屠畜件数が多いのはアメリカやオーストラリア。
なのに、なぜ自国の屠畜場の残酷さを追求しないのだろうか?
捕鯨・イルカ漁が残酷なら食肉文化は原則的にすべて否定されるべき。

(2) 賢く可愛い動物であること。
賢く可愛い動物でいえば、牛豚羊なども同じほ乳類で同等。
にも関わらず、屠畜反対運動をしない、「環境保護」団体は差別的である。
差別的と言えば、「可愛い」「賢い」という不明確な基準もそのひとつ。
何を条件にして「可愛い」「賢い」とするのかが不明確である以上、
それは動物レイシズムと呼ぶべき偏見であるといって間違いない。
「醜く」「愚か」であれば殺してもいいというのは、選民思想とほぼ同一。

(3) 希少動物であること(絶滅危惧種)。
保護については反論の余地はない。推進すべき運動。
ただ、保護が漁業(狩猟)にだけ標的を定めることに歪さがある。
「環境保護」というならば、汚染状況や頭数が減る理由をもっと明確にし、
それに対する有効な保護活動を行うべき。
漁をやめても他の原因で激減したら何の意味もない。
むしろ生物種にとって危険なものは、海洋汚染や海上交通による事故ではないか。

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ネット通販、くちコミサイトのレビューを眺めていると、
「これ、本当にこの商品を使った批評なのか?」、
そんな書込みに出くわす。
そのもっとも顕著なサイトは、ネット通販最大手の「Amazon」である。

Amazonは通販登録者を、ネット・レビュアーとしてランク分けして、
その数量や「参考になった」票を集計して、レビュアー同士を競わせている。
それゆえに、商品レビュー数を増やすために、
どこかから抜いてきた文章を組み立てた、丸写しのレビューや、
あるいは「3行レビュー」と呼ばれる数行のつぶやき程度のレビューも多い。

典型的な適当レビューを平準化してみたら、こうなる。

「ふつうに問題なし」
☆☆☆☆☆

なかなかよいです。本当に簡単に使用できます。
直感的な操作が可能で驚きました。
非常に使いやすい印象。
初心者のかたでも問題ないと思います。


追記には、平準化レビューにも使った表現について、くわしく解説を加える。


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作風が変わったから嫌いになった、堕落した、変節した、というたぐいの言説は見飽きた。
というよりも、「嫌いになった」は構わないと思うが、
自分が嫌いになったものはすべて堕落し、変節しているという思い込みがどうかしている。
どれだけ判断基準が高慢ちきで、自分勝手で、独断に満ちているのだろう。
生きているモノが時間経過のなかでカタチを変えるのはごくあたりまえである。

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接客用語「よろしかったでしょうか」について、賛否両論あるのだが、
この表現が不快であり使用に適さないことは明確である。
だが、「文法上に問題はない」とする暴論があるらしいのだ。
下記のリンク先で発見した。はっきり言ってあきれた。

 http://anond.hatelabo.jp/20091010002215
過去形に丁寧表現がある。
それは使用例によってはそういうこともあるだろう。
では、すべて過去形を使えば丁寧表現になるのか。
あるいは、「かったでしょうか」は時制の不一致と敬語表現の重複という、
非常に不快な連用があるのだ。
「過去形」+「現在形」ということは、過去のことを現在問い直すということだ。
そして、「かった(敬語)」+「でしょう(敬語)」というのも、実は慇懃無礼をおびる。
どこぞの大学教授がこれを問題ないと言っているらしいから、それ自体問題である。

文法上うんぬん、敬語表現うんぬんの問題ではない。
そもそも、文意が不明確で何が言いたいかわからないから問題なのだ。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「でしょうか?」は何時のことを訊いているのか?
ご注文を出した時のことなのか、今のことなのか?

そもそも、「過去形」を敬語表現とするなら、「でしょうか」はいらないはずだ。
大学教授はおマヌケである。
「ご注文はよろしいですか?」にしないなら、
「ご注文はよろしかった?」にすべきである。
「過去形」がいくら丁寧表現だからといって、
やはり接客するときの口調ではないことは明らかである。

私は「よろしかったでしょうか?」の「かった」は丁寧表現ではなく、
受け身の誤用だと考えている。
「よろしい」(目上→目下)というベクトルを、受け身で逆転しようとした、
敬語表現しろうとの浅はかな敬語である。
だから「よろしかった」のあとに「でしょうか」と続けるのだ。

「よろしかったでしょうか?」は用法的にも、
訊かれる顧客としての立場からも、完全に間違っている。
人を不快にする表現は改めたほうがよい、というのは正論だろう。
ほかに言い方が丸でないなら別だが、
もっとよい言い方あるにもかかわらず、不快表現を「問題ない」と開き直るウマシカ、
こういう連中が日本語を乱している。

ひとつ私が模範添削してみよう。
「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」はこう直してみたらどうか。

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必要性を考慮しない価格設定、たとえば砂漠の水と熱帯の水を「世界共通価格」で売るようなバカさ加減は、地域の実情における水の価値をぼかしてしまう。価値というものが世界共通である、というのは経済世界のまやかしである。水のあふれ出るところの「水の価値」と砂漠のように水を得ることが非常に難しい地域の「水の価値」が、同じであってよいわけがない。それを飲料水メーカーが取水地からコストをかけて、砂漠に持ち込んで「世界共通」の価格で売ったらどうなるだろう。それまで砂漠の水を売っていた商人たちは破産するだろう。また、砂漠の水使用の量が激増するだろう。

水の売買は極端な例としてここに引いたが、万事このバリエーションである。

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